父の入院先の病院で、見覚えのあるおじさんに会った。家の近所、駅に行く途中のおうちのおじさんだ。
病院では車いすに乗り、家族に付き添われている。
中学、高校そして就職してからも、庭先にたたずむ おじさんと顔を合わせたら会釈をするだけの関係だった。
おじさんは脳性麻痺があるらしく、言葉が話せなかった。
「おじさん、私のこと覚えてる?」 と初めて声を掛けてみると、 おじさんは怪訝な顔で私を見上げ、コクリと頷いた。
「おじさん、どうしたの?」
「熱が出て、手がブルブル震えたの」
「お正月に高熱を出して肺炎になってしまったんですよ」
家族のおばさんが助け船を出す。
「それまで92才のおばあちゃんがこの人の面倒を 見ていたんやけど、今回車いすになってしまって、家で 見られへんようになりました。施設を見て回ったんやけど、
姥捨て山みたいや、っておばあちゃんが泣いてねぇ。
こんなかたちで生き別れるくらいなら 死に別れた方がまだましや、って・・・」
うちも受け入れ先を探しているという意味では同じだけど、 もともと障害がある人と、そうでない人とでは、 受け入れ先の選択肢も異なってくるらしい。
うちは厚生年金があるから、月額15万円くらいならまだなんとかなる。でも障害者の場合、障害者年金が9万円ほどなので、 家が裕福で援助が望めない限り、有料施設も経済的理由で選択できない。
今では同じ障害者、なのに・・・。
父は元気な頃、このおじさんに対してもそうだけど、 障害者のことを「気持ちが悪い」と言っていた。 母や私に向かって「歩くのが遅いなぁ」と
見栄を張ってわざと早歩きをしてみたり、階段を2段とばしで駆け上がった父。
今ではこの脳性麻痺のおじさんよりずっと「障害者」だ。
父は昭和ヒトケタ生まれだけど、親が教育熱心だったので貧乏だったけど大学教育を受けた。経済学部を出て商社マンになって、外国を飛び回った。
尊敬する首相は中曽根元首相。好きな小説は「坂の上の雲」。
父がもし、若くて元気な頃、弱い人に対して関心を持つことがあったら、そういう人がもっとたくさんいたら、自分が大切にしてもらえる世の中になっていたかもしれない。
これもお父さんたちが選んだ道なんだよ、と言ってしまうのは 酷なことなんだろうけど。
おばさんは私に向かって
「あなたも若いのにたいへんね。でも介護疲れで ダイエットになるわよ」
・・・って、それじゃ、まるで私がデブみたいやんかっ!!